トーマス・マン 1924年(岩波文庫・上下巻)
魔の山ってどないな山やねん、というのが読み始めるまでずっと疑問だったのだけど、普通です。普通の山。
確かにアルプスの山だからそれなりのものがあるのだけど、舞台となるサナトリウムがある場所はおそらく富士山の山小屋よりも低いし、《村》までは患者たちがお茶の後の散歩で行けるほどしか離れてないし、そこまで行くときは馬車が必要になるが駅もあり、気分次第でその先の《町》まで出かけることも出来る。さらに言えばここは観光地で、冬のシーズンになると低地の人で溢れかえる。そういう取り立てて《魔》と呼べない状況を提示されるのだが、俺はもう序盤でゾクゾクきました。なんでだろう? もちろんサナトリウムであるから病人がいて死の影があるのだが、決してそれを煽り立てることもなく、平坦な文章を重ねているだけなのだが、ああ、確かに魔の山だと思えてしまう。そうして下の世界と隔絶されたら、いよいよ本番。
ドイツ文学のイメージ通りか、観念的な作品だった。俺はすっかりその点の考慮を忘れていたので、単純にドストエフスキーの
『カラマーゾフの兄弟』(1880)とそう変わりなく読了できるものと思っていたら、ちょっと苦しむ結果になったよ。でも読み終わった今分かるのだが、理解できなければ斜め読みしても良かったと思う。主人公ハンス・カストルプが次第に思索を深めていくということが読み取るべきことで、その内容についてはさほど重要視しなくていいだろうから。
人文主義者セテムブリーニはその深い知性でハンスを精神的に引き上げよう、そして山から引き下ろそう(山での生活=怠惰という考え)とするが、彼の思想には大きな矛盾があるし、その論敵ナフタが登場する段になると相反する主張が紙面に入り乱れる。またナフタも矛盾した存在、いやむしろ彼こそ混沌で、ハンスやその他の登場人物は皆惑わされてしまうのだから、読んでる側もまともにこれに付き合ってると訳分からなくなる。何か言い合ってるなくらいで読み飛ばした方が全体の面白さを損なわないと思う(俺は少し付き合っちゃったよ……)。
と、観念やら思想やらが延々続くなんてツマンネと思ったらいけません。各章ごとにクローズアップされる点が異なっていて、その一章一章にストーリーとオチがあり(オチとか言うと何だか貶めてるようで怖いな)、それぞれで面白いから。俺は各章ごとに、「ああ…」と声を漏らしました、それぞれ違った意味合いで。ネットで、登場人物の誰々萌え!というスタンスで読んでいくといい、という意見を見かけたのだけど、俺もこれに賛成。くそうっ、ヨーアヒム良い子なのにね! あ、登場人物と言えばハンスが惚れるショーシャ夫人、これまんま
『トニオ・クレーゲル』(1903)だった。いや、こちらの方がふんだんに紙数を費やせるので、この恋愛という点に限って見ても、『魔の山』の方が全然深かったかな。
全編通して時間という観念が深く考えられているのだが、それだけにマンの語りも工夫がされていて面白かった。ある時点のことを物語り始めて数ページ進むと、話している間も当然時間は進んでいて今はもう数週間後だとか言い出す。語り終わって、ではその数週間後というのではなく、一つの流れの中に二つの異なる速さの時間を置くのはちょっと驚いた。《魔》の描き方同様、この人は本当に何気なくやるよ。大作家の貫禄なのだろうか?